What Can a Hippopotamus Be?

大学院で勉強しています。なんでもない、だからこその日常をつらつら記述しています。

葛藤に休息を

大学院を休学することにした。

自分の気持ちを整理するために、書きたいと思う。

研究課題の明確化のための文献検討はひととおり終了し、

あとは研究計画書を記載するだけだった。でも、どうしても筆が進まなかった。

大学院に入学したころの知的好奇心は、いつの間にか、大学院修士課程を卒業しなければならない「義務」にすり替わっていったのだ。

 

そもそも、私が大学院に入った目的は、①臨床から少し距離を置いて、自分自身の看護実践を見直したかったから ②患者の反応を敏感にキャッチする看護師とそうでない看護師がいるが、なぜか?という研究をしたい ③臨床を良くするためには、基礎教育から携わるべきなのではないかと思ったから(教員の道) 

このような目的を達成するために、私は夫に「2年間だけだから」とお願いし、職場を辞めた。

あのときから2年が経過し、目的の達成状況はというと…

①については達成できた。十分なリフレクションもできたし、課題も見つかった。②は、大学院入学早々に断たれた(2年という短い期間や、先行研究が少ないことなどから)。だからといって、研究の熱が冷めたわけではなく、周辺領域は数多く存在するわけで、その周辺領域から研究テーマを絞っていった。しかしながら、その周辺領域が膨大で、文献検討に多くの時間を要した。問題だったのは、私自身の「説明能力」が不足しすぎていることだった。そのため、終了期限を延長することにした。同時に、私の問題は、③を達成することも困難であることに気が付く。説明能力の低い者が、教師になどなれるはずがない。

 

徐々に、とりあえず修士課程を終了して、それからその先の道を考えよう…という思考になっていった。それで頑張れればよかったのだが、私は到底そういうタイプではなかった。昔から、意味づけがないと、行動できないのである。

泣きながらパソコンに向かう毎日に、「なぜ、私はこんなことばかりしているのだろう。これが、将来、患者さんや臨床に役立つ機会なんて、来るのだろうか?私がしたかったことは、こんなことだったのだろうか?」と疑心暗鬼になっていった。

同じ場所でずっと踏ん張る私に、教授から、「今、アルバイトしててどう?」という発問があった。私は滝が流れるように臨床での出来事や疑問、楽しいことなどを話した。その直後に教授から、「そうやって臨床のことを話しているあなたがキラキラしている」と言われる前に、私自身がそのことを自覚していた。

暗闇の中に居続けると、もし明かりが見えたとしても、その明かりが眩しすぎて景色が見えないことがある。教授たちは、ゼミを通して、いつも私に明かりを与えてくれていたのだと思うけれど、私には、眩しすぎたのだ。

 

休学しようと思ったのには、もうひとつ理由がある。家族だ。

先ほど述べたように、夫には「2年」という期限付きで、退職することを認めてもらった。私がその2年を超えて、就学していることにも、何の文句も言わず、ただただ見守ってくれていた。その夫を、これ以上、我慢させられない、我慢させている自分がどうしても許せなかった。我慢とは、経済的なことや、毎日の家事、今後の家族計画のことなどである。

私は、来年30歳になる。

もし、再度修了年度を伸ばしたとして、順調に修了できたとしても31歳だ。

そのときに、29歳からの2年を、学業に費やしたことを後悔しないか?31歳の時点で貯蓄は?そこから順調に子どもを授かるなんて保証もない。夫の人生まで奪う権利が私にはあるのか?私は勝手すぎやしないか?

 

私は研究者としての自分より、臨床にいて患者さんと関わっているときの方の自分が好きだ。そして、教育者になるということよりも、今は家族を最優先に考えたい。自分にとっての夫はひとりで、また、夫にとっての私も、ひとりなのだから。

 

教授は、私に可能性を見出して、大学院に誘ってくれた。そして大学で教師になることをずっと進めてくれていた。そして、復学するという前提で、休学を提案した。教授、恩師への感謝は忘れない。でも、私は復学しない。復学することより、大切なことが見つかったのだ。

この先は学習歴を大切にして、臨床実践を続けて、臨床で教育も続けたい。そして、患者さんがいつでも安心して入院できる「看護」を追及し続けたい。こんなことに気づくまで、ものすごく高額な投資をしたけれど、これが私にとって大学院に行った意味だったと思う。

 

 

さて、一旦夫とディズニーランドにでも行ってきます。

休学中も、一応学生なので(笑)