What Can a Hippopotamus Be?

大学院で勉強しています。なんでもない、だからこその日常をつらつら記述しています。

スイッチを押す

 今の職場で働き始めてから、約半年が経った。訪問看護の現場には、最新の医療設備やコンピューターなどはないけれど、ゴッドハンドと言ってもいい看護師の「手」がある。先輩看護師の手から学ぶ毎日は刺激的だし、利用者さんとじっくり関われる現場はしんどくもあり、楽しくもある。こういう日常を送っていると、「楽しさ」は大変さと表裏一体なのだと思う。

 職場で働き始めてから半年が経過したということは、大学院を休学してから半年が経過したということだ。大学院で学んだことは何か?と聞かれたら、私は「挫折」だとすぐに答える。そして自分で苦笑してしまう。不思議なもので、自己評価と他者評価があまり一致しないこともあるものだという経験をした。それは、現場に復帰してから、あらゆる場面で「文章がわかりやすい」と言われることが多いから。自分ができなくて悩んでいたことも、悩んだ甲斐があったというものだ。報告書や記録に役立っていることが何より。そして、言葉を学んだことで、患者さんへかける言葉のバリエーションも増えたし、自分の感情を整理することにも役立っているとも思う。

 今は現場が楽しすぎて、大学院に戻ろうなんてすぐには思わない。ただ、いくつか取り組んでみたい研究のテーマには出会えた。それだけでよかったのかなとも思う。私の人生の中で、大学院を休学したこと、そして訪問看護の道へ進んでみたことは、きっと何かのスイッチになってる。まだまだ五里霧中。心を崩さないように、自分の中のバランスを取って、ぼちぼち進んでいこう。

計画を立てること=自分の力量を理解すること

私が臨床で実地指導者(新人看護師の教育を担当する)をしていた頃、新人看護師たちに伝えていた言葉があった。

それは、「自分が行う業務やケアの準備や実施、片付けのすべてのプロセスに、どれだけの時間がかかるのか、よく理解しておくように」という言葉だった。なぜ私がこのような言葉を伝えていたのかというと、このことを自分自身が理解しておけば、1日8時間という限られた勤務の中で、最大限の質のよい看護を提供できると考えていたからである。

看護師が受け持つ患者は、当然ながら1人ではない。急性期一般病棟では、重症度やADLなど、その日によって異なるが、大抵5~8名を受け持つ(日勤帯では)。このような状況で、自分のどの行動に、どの程度の時間がかかるのかを理解しておかないと、悲劇が起こる。

例:Aさん)「10:00にお風呂って約束していたのに、まだ来ない」

この場合は、大抵この患者さんのスケジュールに無理があったのではなくて、他の患者さんとのスケジュールの調整がうまくいかなかったケースである。このときに何が起きているのかというと、Bさんに処方されていた食間の内服が見当たらなかったり、Cさんの排泄の介助に時間がかかったり、Dさんの点滴の針が入らなかったり、Eさんが発熱していた…などである。当然、お風呂を待っているAさんは、こんなことを知る由もない(知っておく必要もない)。Aさんは、約束の時間に来ない看護師を呼ぶため、当然ナースコールを押す。Aさんの元には、他の看護師が伺い、謝罪し、なんとかしてお風呂の介助を行う…

 

患者さんの状態は刻一刻と変化するので、確かに予測できない事態が起きることもある。しかしながら、上記した内容は、意外と予測したり、備えたりすることのできる内容である。Cさんの排泄の介助は、Cさんの動き方や、看護師の力量によってその時間が変化する。Dさんが点滴をしていることについて新人看護師は知っているはずだし、刺入が容易でなければ、事前に誰かに依頼することもできただろう。検温は異常がないかどうか、患者さんの体の状態を知るために行うのであるなら、異常があるということも踏まえてスケジュールを調整しておく必要がある。

つまり、長期の計画でも、短期の計画でも、計画を立てるためには、自分自身の力量をよく知っておくという必要があるということだ。自分自身の力量を理解するためには、どの都度、詳細なリフレクションが必要だから、計画を実行し、課題をクリアしていく人は、「自分自身のことをよく知っている」人だということができる。

 

私は、臨床におけるこのような計画を立てることがすごく得意だった。それは、1年目の頃から、自分自身の力量を理解しておくことが、患者さんにとってよいケアを提供するために必要で、重要なことだと心得ていたからだと思う。患者さんの命にかかわる事象だからである。今でも、自分自身のひとつひとつのケアがどの程度の時間を必要としているか、患者さんの状況と掛け合わせて考え、述べられる自信がある。

 

しかしながら、修士課程に入院(大学院に入学することをこのように表現するらしい、確かに、自分自身のパースペクティブに気づかされ、今後に向けて励むという意味ではぴったりな表現ではある)してから、「計画ができない自分」に気づかされたのである。なんと、私は、計画性なしに研究に取り組んでいたのである(誰が見ても笑ってしまうだろうし、私自身も笑ってしまうのだが、くそまじめに当時は悩んでいた)。

今振り返ると、原因はふたつある。1つめ、研究の初心者であるため、研究の一連のプロセスがイメージできなかった。2つめ、自分自身が思考したり、モノを書いたりするのにどの程度の時間がかかるのかを理解していなかった(しようともしていなかった)。あれ?あんなに口酸っぱく後輩たちに指導していたのに…(それでまた落ち込んだり落ち込んだり落ち込んだり…)

恥ずかしながら、大学院に行って初めて、自分は、ひとつの物事を割とゆっくり考えて思考するタイプで、逆に限られた時間でこれだけのことを考えろと言われると、焦りが出てしまうということに気が付いた。さらに、モノを書くのは得意だと思っていたけれど、そんなことはなかった。思いついたことをつらつら書くことはできても、構造化して書くことができない、ということは今までしようとも思っていなかった、ということである。

私は1年半かけてこのことに気が付いて、ようやく詳細に研究の計画が立てられるようになった。自動的に、研究のプロセスがイメージできるようになって、思い付きではなくて、今日するべきことをタスクとして詳細に書き出せるようになった。タスクを書き出せるようになるということは、そのタスクを終了できたかという評価ができるので、達成感にもつながる。1年半は、足が浮いた感じで歩いていたが、ようやく地に足をついて歩きだせた気がしている。本当に、笑ってしまう話ではあるが、私には、これだけの時間が必要だった。

修士課程は、通常2年であるが、私は3年で卒業することにした。他の人が2年で修了できるものを、私は3年もかかるんだ…と思うと、どうしようもない焦燥感と劣等感に襲われ、涙が止まらずぐずぐずしていたときもあったが、ないものを求めていたって仕方ない。私には、私のペースがあるのだから、仕方がない。ゆっくり吸収した知識や、これから発見されるであろう新しい理論は、その分の価値があると信じて、前に進むしかない。

だから、これから修士に進まれる方にひとつアドバイスができるとすれば、「自分自身の力量を、他の誰の評価でもない、自分自身がよく知っておくこと」ただそれだけであある。

これから、その力量をどこまで伸ばしていけるのか、自分の苦労が問われるのである。

 

 

 

 

 

学歴より学習歴。

どのような学校や、学部を卒業したのかは、その人にとっての肩書になるのかもしれないが、価値には直結しない。

私自身が、何を目的にして、何をどのように学んだのか?

今日1日、何を学んだのか?そのことは、どのようなことに役立ったのか?

ひとつひとつの学びと、その学びについての振り返り。

これを繰り返していくしかない。

 

遠くを見つめて歩く

西日本も梅雨明けした。

ヒグラシの声ってなんだか懐かしい。

いろんな夏を思い出す。

今年の夏も、いつかは懐かしい夏になるんだろうか。

こんなに1歩1歩を踏ん張って踏ん張って進んでいる感覚を抱いた夏は、

初めてかもしれない。もう二度と、こんな夏は来ないのかもしれない。

 

ラップについてこんなに考えたことはない①(シリーズ化不明)

二階堂くんのラップは「Kis-My-Ft2」の楽曲だからこそ輝くと思っていた。なぜなら、キスマイの楽曲が洗練されているからだ。「洗練されている」というのは、ラップをどこに入れ込むと楽曲として輝くのか、メロディではなく、敢えてラップでないといけない理由がすべて説明されているという意味である。

 

キスマイの楽曲の中でのラップの立ち位置はこんな感じである(私的解釈による)。

・ボルテージを上げる役割(LIVEでの熱量を上げるという意味も含む、煽り)

例:A.D.D.I.C.T. ”滅茶苦茶にさせる 正常じゃいられない”

※ラップとともに、注意喚起させるような低めのサイレンのような重低音が3回ループする ベース音はラップの切れ目と一緒に刻まれる

・楽器としての役割(装飾音)

例:This crazy love  "Hey baby You gotta get closer"

※北山先輩のメロディをなぞるように奏でられ、ハウリングのように共鳴し、楽曲のエッセンスとなる。

・メロディーの歌詞の意味をより具体的に説明する。

例:r.a.c.e.  "(Imma win the Prime Race)"

※「だからとめられない」理由と、r.a.c.e.は主人公にとってどのような意味があるのかを端的に説明。

 

こうしてみてみると「かき氷はじめました」という調子で「ラップ入れてみました」というレベルではないことがわかる。彼のラップが突出してよく聴こえるのかは、このような完全に計算され尽くした楽曲だからこそであるはずだった。でもそれは違ったのだ。

JUMPの「UMP」のラップ(feet二階堂)を聴いてしまったからである・・・

私は特にJUMPに詳しいわけではない。もちろん、あの明快で誰もが親しみやすいUMPは略すほどに知っているが、歌詞まで覚えているわけでもない。だから、二階堂くんがどのような歌詞をラップしているのかも正直わからなかった。それでもなぜか輝いて突出して聴こえたのである。

なぜだろうか。やはり彼の”声”なのである。ハスキー、とひとことで言ってしまえば簡単だが、そんな簡単に説明のつく話ではない。

少し話は変わるが、フレディ・マーキュリーがあの声を出せるのは、歯が前に出ている分、口の中の空間が人より広く、響くからだと聴いたことがある。

私は、二階堂くんの口の中の空間が広いかどうかを追及したいのではなくて、ハスキーという性質以外にも、発音の仕方や、音の作り方に特徴があるのではないかと思ったのだ(本人に自覚があるか不明)。ラップは高速に音を展開する必要があるから、活舌がよいに越したことはない。しかし、二階堂くんのラップに活舌の良さは感じられない。ひとつひとつの発音すべてに独特の「タメ」がある。「タメ」はあるけれども、リズムに遅れることはない。まるで、その音を鳴らす瞬間を計算し尽して「タメ」て、発音しているように聞こえる。この「タメ」のおかげで、ハスキーであったとしても、棘がない。むしろ甘さを感じるときもある。補足しておくと、彼は決して活舌が悪いわけではないのだ。スタジオ収録の番組やロケ番組で彼以上にうるさい人はいないし、聞き取れないと思ったことは一度もない(表情や言動の意味がわからないという意味で聞き取れないことはあったが)。

 

つまり、楽曲のセンスの良さはもちろんのこと、そのセンスがあって、彼の声があるからこそキスマイの楽曲は輝いていたのだ。

彼のラップのルーツをたどってみると・・・やっぱりdouble upだ。このとき、「メロディそろそろ歌ってよさ…」と思ったのは、私だけではないはず。でも、彼自身が「俺がラップパートをする」ことを選んで、今武器にしていることを考慮すれば、やっぱりなんだかんだ自覚あるのか…???なんて思ったりもする。彼はよくわからない。おもしろい。

 

過去を抱きしめる

「看護師さんは、わかってくれてる人やね」

何か特別な言葉を交わしたわけではない。

少しだけ、ほんの数ミリだけ肩の下に手を入れて、その位置を変えただけである。

体の位置や、体の向きを変えるときに私が大事にしていることは「体のどこかに違和感がないかどうか」究極いえばそれだけである。それは、見た目で確認することもあれば、違和感の原因がわからないときには背部や腰部に手を入れ、極端に圧がかかっている部分がないか、ゆがんでいる部分はないか、狭くなっている部分はないか、を確認する(マットとの接触部分だけではなく、クッションや物の配置も含めて確認する)。

そんなときに、今まで「そうそう」とか「そんな感じ」とか、「大丈夫よ」という反応をいただくことはあっても、このように言われたのは初めてだった。

どうしてだろう・・・と考えてみた。

よっぽど辛かった部位だったのだろうか、長らく気づいてもらえなかったのだろうか、むしろ、お風呂がすっごく気持ちよかったのだろうか、この前に交わしたみんなの会話が楽しかったのだろうか・・・

 

いろいろ考えても、その理由は断定できなかったけれども、私が自分で動きたくても動けなくて、体の違和感のあるところに、誰かがそっと手を触れてくれて、気づいてくれたとしたら・・・そんな風に少しでも近づくことができていたのだとしたら・・・

患者さんが少しでも癒されていたらそれ以上にうれしいことはないし、私の看護師として目指してきたものが、ようやくほんの少し手ごたえとして形になったような気がした出来事だった。何より、私が患者さんに癒された。その人の、人柄に触れたのだ。やっぱりケアは相乗効果だ。

 

不思議な気持ちとともに、アジサイ越しに見上げた夕焼けがとてもきれいで、ちょっとだけ涙が出て、入浴セットを抱えながら再び次の場所へ向かうバスへ乗り込んだ。