What Can a Hippopotamus Be?

大学院で勉強しています。なんでもない、だからこその日常をつらつら記述しています。

計画を立てること=自分の力量を理解すること

私が臨床で実地指導者(新人看護師の教育を担当する)をしていた頃、新人看護師たちに伝えていた言葉があった。

それは、「自分が行う業務やケアの準備や実施、片付けのすべてのプロセスに、どれだけの時間がかかるのか、よく理解しておくように」という言葉だった。なぜ私がこのような言葉を伝えていたのかというと、このことを自分自身が理解しておけば、1日8時間という限られた勤務の中で、最大限の質のよい看護を提供できると考えていたからである。

看護師が受け持つ患者は、当然ながら1人ではない。急性期一般病棟では、重症度やADLなど、その日によって異なるが、大抵5~8名を受け持つ(日勤帯では)。このような状況で、自分のどの行動に、どの程度の時間がかかるのかを理解しておかないと、悲劇が起こる。

例:Aさん)「10:00にお風呂って約束していたのに、まだ来ない」

この場合は、大抵この患者さんのスケジュールに無理があったのではなくて、他の患者さんとのスケジュールの調整がうまくいかなかったケースである。このときに何が起きているのかというと、Bさんに処方されていた食間の内服が見当たらなかったり、Cさんの排泄の介助に時間がかかったり、Dさんの点滴の針が入らなかったり、Eさんが発熱していた…などである。当然、お風呂を待っているAさんは、こんなことを知る由もない(知っておく必要もない)。Aさんは、約束の時間に来ない看護師を呼ぶため、当然ナースコールを押す。Aさんの元には、他の看護師が伺い、謝罪し、なんとかしてお風呂の介助を行う…

 

患者さんの状態は刻一刻と変化するので、確かに予測できない事態が起きることもある。しかしながら、上記した内容は、意外と予測したり、備えたりすることのできる内容である。Cさんの排泄の介助は、Cさんの動き方や、看護師の力量によってその時間が変化する。Dさんが点滴をしていることについて新人看護師は知っているはずだし、刺入が容易でなければ、事前に誰かに依頼することもできただろう。検温は異常がないかどうか、患者さんの体の状態を知るために行うのであるなら、異常があるということも踏まえてスケジュールを調整しておく必要がある。

つまり、長期の計画でも、短期の計画でも、計画を立てるためには、自分自身の力量をよく知っておくという必要があるということだ。自分自身の力量を理解するためには、どの都度、詳細なリフレクションが必要だから、計画を実行し、課題をクリアしていく人は、「自分自身のことをよく知っている」人だということができる。

 

私は、臨床におけるこのような計画を立てることがすごく得意だった。それは、1年目の頃から、自分自身の力量を理解しておくことが、患者さんにとってよいケアを提供するために必要で、重要なことだと心得ていたからだと思う。患者さんの命にかかわる事象だからである。今でも、自分自身のひとつひとつのケアがどの程度の時間を必要としているか、患者さんの状況と掛け合わせて考え、述べられる自信がある。

 

しかしながら、修士課程に入院(大学院に入学することをこのように表現するらしい、確かに、自分自身のパースペクティブに気づかされ、今後に向けて励むという意味ではぴったりな表現ではある)してから、「計画ができない自分」に気づかされたのである。なんと、私は、計画性なしに研究に取り組んでいたのである(誰が見ても笑ってしまうだろうし、私自身も笑ってしまうのだが、くそまじめに当時は悩んでいた)。

今振り返ると、原因はふたつある。1つめ、研究の初心者であるため、研究の一連のプロセスがイメージできなかった。2つめ、自分自身が思考したり、モノを書いたりするのにどの程度の時間がかかるのかを理解していなかった(しようともしていなかった)。あれ?あんなに口酸っぱく後輩たちに指導していたのに…(それでまた落ち込んだり落ち込んだり落ち込んだり…)

恥ずかしながら、大学院に行って初めて、自分は、ひとつの物事を割とゆっくり考えて思考するタイプで、逆に限られた時間でこれだけのことを考えろと言われると、焦りが出てしまうということに気が付いた。さらに、モノを書くのは得意だと思っていたけれど、そんなことはなかった。思いついたことをつらつら書くことはできても、構造化して書くことができない、ということは今までしようとも思っていなかった、ということである。

私は1年半かけてこのことに気が付いて、ようやく詳細に研究の計画が立てられるようになった。自動的に、研究のプロセスがイメージできるようになって、思い付きではなくて、今日するべきことをタスクとして詳細に書き出せるようになった。タスクを書き出せるようになるということは、そのタスクを終了できたかという評価ができるので、達成感にもつながる。1年半は、足が浮いた感じで歩いていたが、ようやく地に足をついて歩きだせた気がしている。本当に、笑ってしまう話ではあるが、私には、これだけの時間が必要だった。

修士課程は、通常2年であるが、私は3年で卒業することにした。他の人が2年で修了できるものを、私は3年もかかるんだ…と思うと、どうしようもない焦燥感と劣等感に襲われ、涙が止まらずぐずぐずしていたときもあったが、ないものを求めていたって仕方ない。私には、私のペースがあるのだから、仕方がない。ゆっくり吸収した知識や、これから発見されるであろう新しい理論は、その分の価値があると信じて、前に進むしかない。

だから、これから修士に進まれる方にひとつアドバイスができるとすれば、「自分自身の力量を、他の誰の評価でもない、自分自身がよく知っておくこと」ただそれだけであある。

これから、その力量をどこまで伸ばしていけるのか、自分の苦労が問われるのである。